楢林理一郎先生の講演を聞いて
社会的引きこもり講演会
2007年11月8日(木)午後1時半~4時
掛川市美感ホール
静岡県精神保健センター
講師:楢林理一郎先生(湘南クリニック院長)
テーマ:ひきこもりに悩むご家族への援助
お話は、ひきこもりの定義と概説、統計的な説明から始まりました。
病院の先生のお話でありながら、医学的な分析よりも、この問題に対する現代医学の限界と心理社会的な支援、精神保健的なアプローチの必要性を説くことが強調されていたように思いました。
「ひきこもり」はしばしば長期化し、家族や援助者は努力が報われず無力感を持ちやすい。その結果、「問題」解決への意欲が低下してしまう場合が多く、長期化によってご本人とご家族の高齢化とともに、ご家族が孤立するという新たな問題も生じやすい。
誰も好んでひきこもっているわけではありませんが、「ひきこもり」の経験と言うものは、たとえその「問題」が解決したとしても、ご本人にとってもご家族にとってもおそらく生涯にわたってその人の生活の質に何らかの影響を及ぼすことと思います。
楢林先生は、お話の中で、「ひきこもり」とうまく付き合うためのアイデアをいくつか挙げられました。「ひきこもり」とうまくつきあう、そういう視点もあるのかなと気づかされました。解決を急ぐあまり、このことが往々にして忘れられがちになるのではないかと思います。
今の閉塞状況を100%悪者と決め付けず、一旦受け入れる覚悟をする。そうすると、今まで見えていなかったことも見えたりするのではないかと思うのです。
「ひきこもり」とうまく付き合うために、先生が最も強調されていたことは、ご家族もほっとできる時間や場所、仲間を持ちましょうと言うことでした。最近は各地に家族会を始め、さまざまな社会資源、相談機関などができてきています。社会や地域にご本人とご家族を支える援助システムが徐々にではありますが構築されようとしています。まだまだ限られた範囲ではありますが、必要としている人たちが声を上げることによって、次第に社会的な広がりを持てるようになるのではないかと思います。また実際そのようになってきています。
なぜ、この人がこの家族がそのような苦しい思いをしなければならないのか、人に訪れた苦難は、その人個だけを見ていては理解できません。来る日も来る日も誰にも言えない苦しさ辛さ。この生活がいったいいつまで続くのか。無為に過ぎていく日々。生きていてそこに何か意味があるのだろうか。
ひきこもりは、いわば人と人が関わりをもつことに対する「異議申し立て」ではないかと思います。表面的には関わりを拒否したり関わりに絶望することのように見えながら、実は、深いところでほんとうの関わりを求めているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。ですから、ご家族を含めて、この社会は、つまり私たちは引きこもる人の声にはならない「異議申し立て」に答えていかなくてはならないと思います。
いま、この時、全国で数十万人から百万人の「ひきこもり」の方がおられると言われます。それだけの数の人がそれこそ人生をかけて「ノー」を表現している。その数とその重みはどれだけなのでしょう。確かに、ひきこもる方々の存在は見えにくい。しかし、彼ら/彼女たちの声が聞こえない、では済まされない。私たちはその声を聴かなくて、その先にどのような人と人のつながりを作ろうというのでしょうか。私たちは可能な限りの想像力を持ってひきこもる方々の声にならない訴えに耳を傾け、私たちのつながりが本来どうあるべきかを考えることに「ひきこもり」のほんとうの意味があるのだと思います。
なぜ「ひきこもり」があるのか。なぜ「この人」がひきこもらなくてはならないのか。「この人」のこころの中をいくら探っても答えは見出せません。答えは「この人」と「私」の間にあるのではないかと思うのです。楢林先生は、「ひきこもり」に対して従来の精神医学で対応できる範囲は限定される、精神保健福祉的なアプローチが必要であるとお話されました。つまり、医療と福祉の両建てで考えると言うこと、その中でも福祉的なアプローチ、つまり関係性の新たな構築と言うことなのでしょうが、そこからはまだまだ多くの可能性が隠されているので、その方面でも期待できるし、また、どうしてもやらなくてはならないことであると思います。今日の講演を聴きながらそのようなことを考えました。
楢林先生言われる様に「何もしなければ、何も変わらない」。ご本人やご家族への援助も含めて社会の各層、各レベルでそれぞれの有効な手段を用いて援助を一層充実していくべきだと思います。人はなぜ生きるのか、苦しみはなぜあるのか、その意味をご一緒に問い、見出すことができたらと願わずにはいられません。
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