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2007年12月12日 (水)

2007クリスマスメッセージ④

 孤独であったり、自分を見失って思い悩んでいるとき、この聖歌をうたうと思わず目頭が熱くなって、深い癒しが与えられます。C.コンヴァース作曲の同じメロディーで日本では童謡「星の世界」として親しまれています。

「いつくしみ深き」 原題:WHAT A FRIEND WE HAVE IN JESUS
(讃美歌312番/ 聖公会聖歌520番)
いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを とり去りたもう。
こころの嘆きを 包まず述べて
などかはおろさぬ 負える重荷を。

いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りて憐れむ。
悩みかなしみに 沈めるときも
祈りにこたえて 慰めたまわん。

いつくしみ深き 友なるイエスは
かわらぬ愛もて 導きたもう。
世の友われらを 棄て去るときも
祈りにこたえて いたわりたまわん。

 この詩は私達がどのような状況にあろうと、救い主イエス・キリストは慰め励ましを与える最高の友であることをのべ伝えています。
 また、聖書の別の箇所では、次のようなイエス様の招きの言葉が語られています。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
(マタイによる福音書第11章28-30節)
 クリスマスはそのイエス・キリストのご降誕を記念して行われるキリスト教の祝祭です。

 私たちはそれぞれ神様からかけがえの無い賜物をいただいています。私たちがそれを知りまた信じることによって深い慰めと生きる勇気,希望が与えられますように。またその賜物が私たちの間にあっては神様の慈しみの光に照らされてこの世に光り輝きますように。メリークリスマス。

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2007クリスマスメッセージ③

 自分らしくあるということは、自分を生きるということ。生き辛さを感じたとき、自分を取り戻すために立ち止まって重荷を降ろすことができたらどれだけの人が救われることでしょう。必要なときに途中下車できる社会、下車しなくても特急電車から普通列車に乗り換えてスローダウンすることが当たり前にできる社会。そうすることがその後の人生のなかでハンディにならない。負の経験がキャリアとなってふたたび人生を歩むことができる。社会の仕組みや私たちの意識にそれくらいの余裕が欲しい。若者を支えるのは社会の総合力です。社会の中にへこんだ部分があっても余裕があるところがそれを埋め合わすことができればいいのです。

 たとえいま自分が重すぎる荷物にへこみそうになっても、社会に分かち合える余裕があれば、少しの無理も持ちこたえることができます。薬を飲んだり精神療法や癒しの手立てを受けてでも、重荷を抱えて人生を走り続けざるを得ないのは、余裕のないまさにこの時代らしさなのですが、それはほんとうに私たちが望んでいる人間の在り方なのかどうか。必要とされない、無視される、人の生きようとする力を挫くにはそれだけで十分です。自分たちは社会から大切にされている。守られている。見放されることは無い。そういう安心や信頼こそ今の若い人たちの間には必要ではないかと思います。余裕があれば打たれ強くなる。挫けずに困難を乗り越えようとする意志が働く。安心が人を支えるでしょう。

 いまはなきマザー・テレサの言葉、「この世で最大の不幸は誰からも必要とされないと感じること」。この言葉はいまも生きています。マザーはインドの路上で孤独の内に死に行く人々や孤児そして貧しい人々に仕えていましたが、この言葉は愛に冷めたこの国の人々の心をも鋭く射抜いています。

 新約聖書の中で、イエス様がお弟子に語られたたとえ話に「見失った羊のたとえ」があります。「あなた方の中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか。」(ルカによる福音書14章1節-7節)というくだりです。神さまはどこまでも迷い出た私を探してくださる。迷い出たのはお前の責任だとは言いません。人は迷うものです。一度だけではありません、何度でも迷います。神さまはそのことを十分ご承知です。だから何度迷ってもどこまでも探し出してくださる。それがまた、たまたま迷い出ないですんだ野原に残された99匹の羊の安心でもあります。

 私たちの生活は互いの力によって担われています。生産性や能力の面だけを見て、社会や誰かを担っているつもりでいても、実は人間存在という面においては反対に担われる側にあります。神さまは人間に多くの裁量を委ねられました。人に社会を形成し、それを治める力をお与えになりました。人はそれぞれが持っている賜物に応じて社会の中で役割を果たします。障がいがあっても無くても、老若男女、仕事ができてもできなくても、個々に与えられたものを用いて社会を成り立たせている。この世には不要な人などひとりもいない。誰もが他者を必要とし、また必要とされている。

 この世にかけがえのない命が与えられたのです。若い人たちはわたしたちの未来そのものです。その人たちが希望を失ってどうして未来を語ることができるのか。
ひとりの人間としての尊厳が守られ、その人に与えられた賜物が生かされるよう励まし助けて、社会全体で若い人を支える仕組みを作る。若者を支えるのは社会の総合力です。「かげんどら」も現代のこの社会では数少ない「安心を感じられるところ」として人々のお役に立ちたいと願っています。
(続く)

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2007クリスマスメッセージ②

 若い人たちが自分らしく、安心して生きられないのは、この社会が個人に対して適応や順応を求めることが余りに多くて、自分らしくいられる時間や空間がどんどん狭められているからではないかと思います。この社会では、社会参加も自立も要するに社会に適応することとほとんど同じ意味です。

 自分らしさというのは、自分が存在することとそのありのままの姿を肯定する感情から生まれます。自分を社会や集団に適応させることばかりが求められると、自分を肯定する感情を育てる余裕がなくなってしまいます。いったん社会や集団から身を引く、そういうことも時には必要かもしれません。

 安心していられる時や場とは、自分らしさを出せるところです。それは時には甘えやわがまま、あるいは自分流とか頑固さという形で表現されるかもしれません。その人に何ができるのか、あるいはできないかとか、社会や他者から何を期待されているかということはさておいて、自分が自分であることを基本的に保障される、つまり他者から存在とありのままの姿が基本的に肯定されたり受け入れられること、またそれが許されているという関係が成り立っているかどうかということが問題です。人はそういうところで安心や自分らしさを感じることができるからです。その感情は人が生きていく上で大切な力になるでしょう。またそれは平和な社会を築くために欠くことができない礎でもあります。反対に、自分を見失うとはどのような時かと言いますと、自分はこれでいいんだと自他共に肯定できる関係が見えなくなっているときです。

 皆さんはどのようなときに安心や自分らしさを感じますか。私の場合、いろいろな場面を想像できるのですが、社会に適応しようとしている自分が自分らしくはないかというと決してそうではありません。社会に適応しながらかつ自分らしくあるということは当然可能なわけで、本来両者は矛盾するものではありません。しかし、知らぬ間に荷物をたくさん背負い込んでいる自分に気がつくことがあり、そんなときは関係もなんだかギクシャクしてたいへんな思いをします。重荷は人生に付き物です。それを過重と感じるかどうかはそのときどきの自分の状態と社会との関係によります。自分の許容量が低くなっていたり、社会からの期待がそれを上回ったりします。

 社会から顧みられなくなっても貧しさから抜けられなくても、すべて個人の責任にされてしまうのがいまの世の中、社会とのつながりが見えなくなって重荷を重荷と感じても、その重荷を降ろす余裕すら与えられません。余裕のない状況ではちょっとした困難でも大きな打撃となります。そこから外れることが直接恐怖につながります。余裕を失って蓄えの無い人にとっては、危機的状況に陥りやすく、まさに生死に関わる問題です。
(続く)

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2007クリスマスメッセージ①

 私が関わっている「特定非営利活動法人 かげんどら」の活動には学習会を中心にしたフリースクールと、若い人たちが自由に利用できる居場所、就労と社会参加の機会としての喫茶・売店部門の3つの活動があります。
 どの活動においても、基本としているのは日ごろ人と関わる機会の少ない若い人たちに「安心して過ごすことができる居場所」を用意させていただくことです。ですから、私たちスタッフの関心は、参加者に「どういう人になってもらいたいか」ということよりも、「いまこの世界をどう感じているか」ということにあります。
 私たちは、若い人たちにとってそこがひとつの社会参加の機会となり、その場において自然に分かち合いが行われることを願っています。そういうことを通してそれぞれが自立への意欲を高めていただく一助となれば、それはそれでまた結構なことだと思います。

 最近、新聞に掲載されたこの国の若者に関する二つの統計結果をご紹介します。そのひとつは10月9日付け静岡新聞、医師が面接して診断した北海道大学研究チームによる調査で、中学1年の一般の生徒122人の内うつ病の有病率が10.7%であったこと。
もうひとつは、高校生新聞社が今年の7月、全国の国公私立高校58校を通じて、高校の人生観を問う調査で、「失敗してもやり直しがきく」と答えた生徒は11%、「今の日本に生まれてよかった」は28%、「努力すれば報われる世の中」は34%、「格差が広がるのは仕方が無い」は29%、「希望の仕事でなくても正社員に」は51%、「将来の年金受給を疑問に思う」は32%、「結婚できない不安を感じる」は25%、という結果が発表され、記事は全国の高校生たちの間で悲観的な人生観が広がっていることがこの調査で分かったと結論しています。

 失敗は許されない、努力は報われない、貧乏人は文句を言えない、結婚できないかもしれない、老後の生活もままならない。これでは何のために高校生生活をしているのか分かりません。社会への信頼や希望を失って、切羽詰った余裕のない若者の心理が見えてきます。先にあげました中学生のうつの有病率の高さは、こうした高校生の社会認識や人生観にかなり近いものが原因しているのではないかと想像します。こういう状況のなかで仲間同士でいじめあったり、生きる意欲をなくしたとしても不思議ではありません。
(続く)

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