以前にもこの欄でご紹介したことがありますが、私は精神科病院に入院されている患者さんで、もはや入院治療が必要ではない方の退院と社会復帰のお手伝いをしています。これは国の基本方針が入院治療から地域生活へ180度転換したのを受けて各県が独自に行っている事業です。
この事業の主旨は、受け入れ条件が整えば退院が可能な精神科病院の入院患者が地域で暮らすことができるような流れを新しく作ることにあります。4年前の統計では、全国約33万人の入院患者のうち、この事業の対象者は約7万2千人でした。
この事業を行うに当たって、保健所をはじめ、県市の行政担当者、病院・医療関係者、社会資源を提供する事業所、私のような民間人など、この「流れ」を作るためにいろいろな立場の人が関わります。このことの背景には社会福祉の構造改革があって、この事業はいわば国策に乗ったものと言えます。だから多くの関係機関が動員される。病院経営者や行政の生活保護担当者もそれに乗らざるを得ない。一人の入院患者が地域で暮らすことができるようになるまでに、多くの人々の知恵と判断が求められ、時間と労力がかけられます。これは、国家の政策転換によって、いわば国家意志が権力を伴って具体化されつつあるひとつの例です。
それと比較して、「ひきこもり」の人々の社会復帰や社会参加への道筋はどうでしょうか。こちらは力点の置き所が異なっています。社会的ひきこもりそのものは障がいでも病気でもないので、一次的には医療や福祉の施策の対象ではありません。前回の会報でも書いたように、現在のところ「ひきこもり」対策の主流は家族支援です。主にカウンセリングや講習、親の会のグループワークなどで親の考え方や子どもへの対応を変えることによって問題の解決を図る。言い方を変えれば、親任せの状況です。
全国の社会的ひきこもりの人数は、ある調査では約60万人といわれています。「ひきこもり」が長期化、高齢化する一方で新たにひきこもる人々が加わる。誰が考えても分かるように、明らかに家族支援や自助努力には限界があります。「ひきこもり」の解決に親の果たす役割は大きいということは事例が証明しているようですが、社会復帰や社会参加という視点で、社会の側からのアプローチが是非必要です。その点、今の施策ではまったく不十分に思われます。対策を先延ばしする理由は何もありません。近い将来どの道やらなければならないことです。なぜ対策が進まないのでしょうか。
『ひきこもり救出マニュアル』を書いた精神科医・斉藤環氏によると、社会的引きこもりは日本だけではなく、隣の韓国や欧米などの高度に産業が発達した社会に共通して見られるそうです。ただし、「ひきこもり」の本人や家族の苦境や痛みはその国の家族関係や社会保障制度によって違いがあります。特徴的な点としてひとつ挙げるとすれば、日本の場合、子どもがひきこもっている限りその世話を家族が延々と見ていなければならないということ、もちろん日本では子どもが成人になっても所得保障はない。この共通点と相違点から生ずる疑問は、第一になぜ社会的引きこもりが同じように産業が発達した国に見られるのかということ、あるいはその原因を養育環境やしつけの仕方などの個人的なレベルの問題に焦点を当てる、つまり個人に責任を求める傾向をいちばん歓迎するのは誰か。もうひとつは、文化の違い、たとえば親子関係や人の自立に対する考え方が国によって違うとはいえ、わが国ではなぜこの問題がこれほどまでに深刻の度を深めてしまっているのかということ。そこに政策の誤りはなかったのかという疑問です。
現代において、特にこの国では資本と労働(人間)の対立軸が意図的にあいまいにされているように思えます。なぜ私たちの社会はこれほどまでにストレスに満ちているのか。誰もが余裕をなくしているのか。それは、1980年ごろからの30年来、資本の要請のままに行われたこの国の政策が難なく国民生活のあらゆる場面に浸透し、多少の抵抗はあったにせよ、全体としてみれば私たちがそれをあるときは歓迎しあるときは追認してきた、結局私たちの選択の結果ではないかと私は考えています。
資本は、人間の絆を分断し、人々を管理し、資本にとって望ましい「奉仕する」国民に仕立て上げることに成功しています、国の政策は近年ますます私たちの生活を圧迫しています。若者が背負わされている苦境の原因が積年の施策にあるということ。その方向が、まさに私たちおとなが選択してきたものであることに気付かなければなりません。若者は今のこの社会に苛立ちを感じていても、その苛立ちや怒りをぶつける本当の相手の姿が見えない。
「ひきこもり」の家族支援は大切な働きであると思います。しかし、一方で「ひきこもり」を生み出す社会の仕組みにメスを入れなければ何も変わりません。このことは、特に「ひきこもり」に限ったことではありません。若い人たちがもっと安心と希望を持てる社会にするために、国は資本の顔色ばかりを伺っていないで、最低限の所得保障を始めとした、教育、福祉、精神保健、産業・労働の各分野を横断する構造的な改革を断行するくらいの決意を示しても良いのではないかと思います。国益を守ることと、その国に住む人々が安心で希望をもって生きることとは相反することなのでしょうか。
私たちおとなについて言えば、「ひきこもり」は私たちと関係ないところで生じているわけではありません。私たちのために多くの若い日々がむなしく費やされています。「何のために勉強するの」「学校を出てなんの役に立つの」「いまの努力がいつか報われるの」、このような問いに私たちは答えられているでしょうか。若い人たちが希望を持つことができる社会にしなければなりません。若い人たちにこの世界に足を踏み入れる覚悟と勇気を持ってもらうには、この世界がそれだけのものを備えていなければならないのです。
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