2008年9月17日 (水)

かげんどらのボランティア事情②

 居場所のボランティア希望者には、居場所の仲間のお世話をしなければならないという気構えで来られるとその気持ちはたいてい裏切られる。矛盾しているようだが、居場所の仲間はボランティアを必要としてはいない。それでは、ボランティアを「する」意味はどこにあるのだろう。彼ら/彼女たちが求めているのは仲間であり、社会である。自分の存在が認められ、言葉が聴かれ、感情を受け止められる。時には仲間の批判や拒否にあったとしても、空虚に向かって語るのとはまったくわけが違う。

 社会は彼ら/彼女たちそれぞれにとって適当な複雑さを持っていたほうが良い。特にかげんどらの場合、参加者の年齢や障がいなど個々の置かれた状況は大きく異なる。社会性の発達度や個別の状況によって参加者の受ける刺激や情報量の許容量は違う。そういう意味では、かげんどらの「社会」は複雑ではあるが配慮された社会といえる。かげんどらのスタッフは、職員やボランティアという立場の違いはあるにせよ、だれもが仲間として「社会」を構成する一員である。このこと抜きには居場所はありえない。
 一方で、スタッフには場の様子から時には「見守る」だけであったり「何もしない」という仲間からの距離感に耐えることも役割のひとつであることを承知していなければならない。当然かげんどらの「社会」は刻々変化している。関心を持って見守る中で「次」のかかわりのポイントが見えてくることがある。

 いま、福祉の世界で介護・介助が点数化や序列化がなされている。そして人々の間に「お互いさま」のおおらかさや余裕が次第になくなっていることも肌身に感じる。真っ先に切り詰めるとすれば評価や効果も定かではない他者のために捧げる時間と労力。関わって初めて見えてくる世界や自分自身との出会いがある。それに比べたら「何のためにボランティアをするのか」という問いや理由付けさえもたいした問題ではないように思える。しかし現代の私たちはそれがなければ動くことができない。もはやこのようなボランティアは時代にそぐわないものになってしまったのではないかとなんとなく寂しい気がすると同時に、この国の将来が危惧される。

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かげんどらのボランティア事情①

 かげんどらはその始めから男の子の参加が多いのが特徴でした。しかし見学者は、特に統計を取っているわけではないが、性別でそれほどの違いは無いように思われます。これは、スタッフが2名とも男性であることも原因しています。女の子が見学に来て、お父さんやそれに近い年代のおとなが相手では抵抗を感じる子もきっといたでしょう。そんな時いつも女性のスタッフがいてくれたらなあと思います。ところがその男女のバランスにこのところ異変が起きています。男性スタッフだけでは細やかな対応に限界を感じはじめていました。

 そんな折、最近、女性のボランティア・スタッフを募集していたところ、幸運にも協力してくださる方がひとり現れました。同じ頃、ある女の子との出会いがあって関わりが始まったところだったので、彼女にお手伝いをお願いすることにしました。自宅を訪問したり、一緒に図書館に行ったりしました。相手からキャンセルがあったあとは、電話で相手の気持ちを丁寧に聞いたり次の活動の予定を話します。活動が途切れることなく、信頼関係を積み重ねることができているのではないかと思います。自宅訪問の際、白昼女の子ひとりの家に男性が入るわけにも行きません。そういう点で結構助かっています。欲を言えば、普段の活動でも女性のスタッフがいてくれたらと思います。複数の人間が関わると活動が安定する。そこに女性の視点があればさらにありがたい。

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