2006年10月 7日 (土)

愛するものとの死別

皆さんは『葉っぱのフレディ』という絵本をご存知ですか。1998年に初版が発行されていますから、もう8年前の本です。その頃新聞などの書評欄でよく取り上げられて、けっこう話題になりました。その巻頭には「この絵本を 死別の悲しみに直面した子どもたちと 死について適格な説明ができない大人たち 死と無縁のように青春を謳歌している若者たち そして編集者バーバラ・スラックスへ贈ります。」と、作者・レオ・バスカーリア氏から読者へのメッセージが付けられています。時を経ていくつもの体験をした後に読み直すと、前よりも味わい深く読むことができます。

同じ作者が後に『パラダイスゆき9番バス』、副題「もっと素敵な自分」への出発、という絵本を著しました。レオ・バスカーリア氏はテキストを担当し、絵は葉詳明氏が描いています。主人公の「ぼく」は動物園行きのバスから見慣れないバス停を見つけて行き先を変えます。「パラダイスゆき9番バス」のバス停のベンチに座ってバスを待っている「ぼく」に、どこからか聞き覚えのない声が耳に入ります。その声は6つのテーマを語りかけてきて、生きる知恵となる言葉が次々と「ぼく」の〝こころの耳〝に届いてきたのでした、とお話が始まります。その6つのテーマの中に「愛のエネルギー」というお話がありますが、私が最近この絵本を読み直してとても印象に残った箇所で、皆さんにご紹介したいと思い、以下ここに抜書きをさせていただきます。すべてのテキストをお読みになりたい方は、図書館などでご覧下さい。書店にもあると思いますので、立ち読みできるくらいのページ数です。

「愛するひとが目のまえから いなくなっても

 わたしたちのこころのなかで 永遠に生きつづける。

 わたしたちが考え 決断し 行動するときに いつもいっしょにいる。

 だから だいじょうぶ。わたしたちが愛するひとをうしなうことは ないんです。」

「何年もかけて育てあげた愛は

 たとえ うしなうことがあろうと

 悲しみは大きくても

 こころを豊かにするのです。」

愛するものを失うことの中で、その最たる場合が死による有無を言わさぬ別離です。そのことについてここで少し考えてみたいと思います。

愛するものとの死別はひとが経験する苦難の中で最も大きなストレスをもたらすというようなことを、最近知人の書いたものを読んで知りました。最愛の配偶者や、子どもを失う悲しみは私たちの想像を超えて深くつらく、その悲しみが癒されるまでには気の遠くなるほどの時間と忍耐と努力を要することでしょう。しかし、愛するものとの死別はたしかに物理的に超えがたい関係の断絶があるわけですけれども、それはたんなる絶対的な喪失あるいは関係の終焉ではありません。「何年もかけて育てあげた愛はたとえ失うことがあってもこころを豊かにします。」心の痛みが癒されるとは傷口がふさがれて元のようになることではなく、その後の人生において体験する喜びやあらたな悲しみなどの感情とともに長い時間をかけて織り込まれていく織物のごとく、人生の終わりまで続く過程であると理解すべきでしょう。愛するものの生と死はいったい何だったのだろうか。ともに暮らした日々は何だったのだろうか。そして残された者はどのようにその死を受け止めたらよいのだろうか。生と死の意味を問い、忍耐強く織物を織る人にとって人生の終わりには必ず大きな報いがあると信じます。死別によって織物の制作が中断されることがないのと同じように、愛するものとの関係は死を超えてそのように続きます。

私たちにとって身近な人がそのような悲しみに遭遇したときは慰めや励ましの言葉も見当たりません。そんなときには上にご紹介した絵本を何も言わずに差し上げるのもよろしいかと思いますが、いかがでしょうか。

ふたたび『葉っぱのフレディ』のテキストから・・・

「世界は変化しつづけているんだ。変化しないものは ひとつもないんだよ。」

「死ぬというのも 変わることの一つなのだよ。」

「いつかは死ぬさ。でも“いのち”は永遠に生きているのだよ。」

「大自然の設計図は 寸分の狂いもなく “いのち”を変化させつづけているのです。」

生まれ、生き、死ぬということは永遠のいのちの予定された変化の一部であるということを作者は教えてくれます。わたしにもいつかは必ず別離の悲しみが訪れます。それはいつのことか、またなぜそのときでなければならないのか、限界のある人間にはそれが隠されています。”大自然の設計図”は人間の理解を超えています。人間はその兆候を見てその働きを知り、また悟るだけです。それゆえにそのことを忘れずに心に刻み、そして、そのときのために今ある愛を大切に育てること、それが人間にできる最高のお勤めではないかと思います。残されるものも死にゆくものも、また立場が逆転しても、備えがあれば最後には豊かな報いが約束されていることを信じて生きたいと思います。

このブログを読んでくださる皆さんの中には、死別の悲しみをまだ経験していない方もいるでしょう。でも、だれでもひとは人生の中で苦しみや悲しみを抱えながら生きています。そして、喜び楽しみも味わいます。それら悲喜こもごも縦糸になったり横糸になったりして、またはじめの新鮮な感情は過ぎ行きまた訪れして、だんだんと人生という複雑で予測不可能な織物を仕上げていきます。ですから、もしもいま悲しみや寂しさに打ちひしがれている人が絶望的な感情でいるならば、どうぞあきらめないで、希望を持ち続けていただきたいと思います。わたしが上に書きましたように、また、レオ・バスかリア氏が書いているように、いのちは永遠に生きています。あなたは永遠のいのちの一部です。あなたの喜びや悲しみは他の人とつながっています。それらはあなたの中だけにとどまることはありません。人はそのように見えないところで影響しあって、また支えあって生きています。人生はあなたが感じているように決して見え透いたものと決め付けることも、単純に割り切ることができるものでもありません。忍耐と希望、そして愛を持っていれば、いつかは今とは違った自分と自分につながる世界を見つけることができると思います。

上掲『パラダイスゆき9番バス』のエピローグで作者はこのように話を締めくくっています。

「ぼくはこうして、人生というのは パラダイスをわざわざ さがしにいく必要などなく いま生きている いまこのときを パラダイスにすればいいのだと おもいなおして 動物園へとむかうことにしたのです。」

「こころをひらいて まわりのものを愛で包めば 人生はパラダイスです。」

参考:『葉っぱのフレディ ―いのちの旅―』レオ・バスカーリア作、みらいなな訳 1998年童話屋

『パラダイスゆき9番バス 「もっと素敵な自分』への出発』レオ・バスカーリア作、葉祥明 絵、近藤裕 訳、2000年三笠書房

『新約聖書』マタイによる福音書 第5章4節、山上の説教「幸い」より

 悲しむ人は、幸いである、/その人たちは慰められる

『新約聖書』ルカによる福音書 第6章21節より

 今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。

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2006年9月20日 (水)

不足を嘆かず足るを喜ぶ

人生は以外と短いぞ、と最近よく思います。私に残された時間はあとどのくらいだろうか。朝、家族が学校に幼稚園に仕事場にそれぞれ出かけるとき、もしかしたらこれが最後かもしれないという気持ちで、いってらっしゃい、行ってきますと声をかける。日本のような平和な国だと切迫感はありませんが、これが戦火の下に暮らしていれば、「もしかしたら」なんて悠長なことは言っていられない。今、与えられているこの瞬間が、そしていのちがとてもいとおしく感じられるはずです。

私の場合、一週間の内まともにからだが動くのが5日間だけという事を前提に、自分の生活を見直すと、たったそれだけのことですが世界はちょっと違ったように見えます。一瞬一瞬が、一つひとつの出来事や経験がかけがえなく、とても大切に感じられます。朝、仕事場に行く道すがら目に映る光景、一歩また一歩と地面を踏みしめて前に進む体の動き。「やっ、からだが動く。ありがたい」と、感謝の気持ちが自然とわいてきます。今日一日、このからだを用いてその感謝の気持ちを表すことができるようにと祈り、願う。できることならば、その一点に集中したいとさえ思うことがあります。

自分にとって如何ともし難いこのからだを持って嘆くことをせず、かえって不足ゆえに充足を得、喜ぶことができるのです。この人生の逆説は不思議です。それは自分独りで成し得る業ではありません。また、予期して得られることでもありません。人の思いや力を超えたところから与えられたもの、世界や人との出会いまた関わりを通して賜ったものと考えます。

そうしますと、自分にとって不足と思われるもの、劣っているものや貧しいと感じられる諸々は、豊かなものに変えられる可能性を宿していると考えられないでしょうか。それを可能とするものは、他者や世界との出会いや経験の一つひとつといえましょう。しかし、他者や世界との出会いや経験といいましても、それらは人の意思や偶然によってもたらされたのでしょうか。わたしは、そこに究極的には人を超越したもの働き、それを神さまあるいは宇宙と言ってもいいかと思いますが、いのちの源の存在を信じないではいられません。それに希望をおき、まったき信頼を寄せることによって、数々の出会いや経験はその人にとって本当の豊かさに変えられていくのではないかと考えます。

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2006年9月 6日 (水)

人生の賜物

 私の敬愛する師で、キリスト教の現役の牧師がいます。彼は緑内障を患い、次第に視力が低下し、いまはまったく視力がありません。しかし、日常生活や牧師としての勤めの上では晴眼者とほとんど変わらない日常を送り、またお勤めを果たしています。それにも増して、多くの信者からその人柄が愛され、尊敬を集め、慕われています。牧師にとってこれに勝る資質はありません。師の生き様を見ていると、彼は視力こそ失いはしましたが、それに代わるもの、感覚であるとかある能力であるとか、いえもっと大きな何かを得ているような気がいたします。。失ったものを補って余りあるものを与えられているようです。彼にとってそれは予期せぬ人生の賜物ではないかと思います。

 障がいを持つ人には時にこのような人生の賜物を見ることができます。私が仕事にしている青年たちの居場所「かげんどら」にはさまざまな障がいを持つ青年が出入りしていますが、私は障がいを持つ人とお付き合いさせていただいて、特にこのことに気づかされます。障がいは人生において必ずしもマイナスだけで終らない。それは必ずしも障がいを持つ人にだけ言えるわけではありません。障がいの有無に関わらず、人生を豊かにしたいという願いと意欲の現われではないでしょうか。自分の人生にに与えられた、世間一般では負の要素と思われているものが、逆に自分の人生を豊かにするのです。

 このように考えると、人生というのはほんとうに分かりません。人生に「なぜ」、と問うことは無意味でしょうか。ダサいでしょうか。なぜ私はうまれたのか、なぜ私はここにこうして生きているのか、と。確かに教科書どおりの正解などあるわけはありません。しかし、私は思うのです。人が「なぜ」と問うことをやめてしまったなら、人に与えられた負の要素はただの負でしかありえないし、さまざまなハンディや試練も人にとって負債以外の何物でもありません。問うことを知らない人や問うことをしない人は、試練を受けたときかんたんに諦め、絶望し、愛を冷ましてしまいます。生きるとはそんなに単純なことではありません。「なぜ」と問う人にだけ、問い続ける人にこそ、負債を帳消しにしてでも余りある豊かさ、幸せ、喜びが-それは以前考えられていたような幸せとはまったく違うものでしょうが-与えられるでしょう。

 もしも、人生を投げ出したい、諦めようとしている人がいるなら、また絶望し、孤独で悲しみの中にいるのなら、どうぞ思い直してください。人とは問うもの、問われて応答するものです。そこに人として生まれた喜びがあり、希望があり、意味があります。あなたのいるそこから、「なぜ」と問うことをはじめてみませんか。あなたは人生から問われているのです。あなたがいま味わっている逆境や試練、悲しみ、あるいはあなたが自分に「欠け」を感じていることや人と比べて見劣りしていると感じていることでもいいと思いますが、それらは、きっとあなたが豊かな人生を送るためのきっかけになると私は信じます。人生の賜物は、そのような人に限りなく与えられることでしょう。

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