「喜びなさい、天にはあふれるほどの時間がある」
いろいろな事情が重なって、不覚にも忙しさに追われる日々を過ごしていました。そんな心の状態でしたから、人の中では気を張っていても、そこに暮らしの心配や健康の不安など先々の不透明さが加わって、もしかしたら独りでいるときの自分の顔を曇らせていたのではないかと思われます。
忙しい、時間が無い。でも、ちょっと待って、その時間は誰のものですか。ストレスによってからだが歪んでいく感覚の底から、一筋の光明がさすように、そんな問いが心に浮かんでまいりました。助かった。
そのとき私の心にこんな声が響いていました。
天上にはあふれるほどの時間がある/天にあるものを地上でも求めなさい/求めれば与えられる/天上ではあなたが望む前に/すでにあなたにちょうど良い時間が用意されているから。
そして、すべての思いわずらいを天にゆだねて/今ここにいることを喜びなさい/いつも喜びなさい/喜びは天上のもの/ひとはお互いに喜び合うために生まれているから。
イエスがユダヤの町を巡り歩いていたとき、多くの人のからだと心を癒されたことが聖書に記されています。その中にはからだの不自由な人、目の見えない人、心を病んでいる人、ハンセン氏病や癒しがたい病を患っている人、出身や仕事によって社会的差別を受けている人など、生きる希望を失い、社会の底辺でうめき苦しんでいる人々がいました。人々はイエスと出会って癒され、心もからだも新しくされました。イエスは2千年前のユダヤの社会という限られた時間と場所で生涯を送られましたが、同時に彼は神の子として神の性質である永遠の時、永遠のいのちをそのうちに宿していました。幼子のようにイエスに出会って人生を変えられた人たちが喜びに満たされたとき、その人々はイエスと共に神の国にいたことでしょう。そして、復活のイエスは今も私たちの間に居られるのです。
最近、友人からいただいたお便りに茨木のり子の詩「自分の感受性くらい」が紹介されていました。
「ぱさぱさに乾いてゆく心を/ひとのせいにはするな/みずから水やりを怠っておいて
‐‐‐(略)‐‐
自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」
時間が無いことをひとや仕事のせいにするな。時間が無いということを言い訳にするな。天に願いもしないで、ばかものよ、と叱られたようでした。
天の星々の瞬きや打ち寄せる大洋の波のリズムが人の鼓動と共鳴し、まだ天上の世界と地上が人の意識において分かちがたく共存していた原始の昔、永遠という名の揺りかごにまどろみ、自由に時空を超えて闊歩していた人たちが、時間という道具を天から賜って得意げに振舞ったり、時間に追われていのちを無駄使いしている現代人のこのありさまを見たら、きっと智恵も想像力も感受性も乏しい憐れむべき末裔と嘆いたかもしれません。
よくクリスマスに語られる聖書物語があります。イエスの誕生を最初に知らされたのは権威ある者たちではなく、野宿しながら夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちでした。安定した生活を保障する地位も明日に持ち越す僅かなお金も家族と共に住む家もない、その日暮らしの羊飼いたちにお告げがあったということは、その後のイエスの働きや貧しいものは幸いであると諭されたイエスのメッセージを象徴しています。
その夜、野宿している羊飼いたちに天使が現れ、言われた「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」そしてこの天使に天の大群が加わり神を賛美して言った。「いと高きところには栄光が神にあれ、地には平和が御心にかなう人にあれ。」羊飼いたちはさっそく天使が告げられたその出来事を見に行った。彼らは見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながらかえって行ったと、イエスがお生まれになったそのときの物語が聖書に記されています(新約聖書、ルカによる福音書第2章8‐20節)。
後にイエスは、ユダヤの社会にあって権威ある者や宗教的な指導者として敬われている人々から、あなたの言う「神の国」はいつ来るのかと尋ねられたとき、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなた方の間にあるのだ。」と答えられました。神の国はあなた方のように、見ようとしないものには現されず、信じないものには開かれない、神の国は今ここにあるというのに、あなた方はいったいどこをみているのか、と。
目に見えるものにとらわれて、大切なものと引きかえに心を暗くさせ、生き悩み呻吟している現代の私たちの感覚やその生き様は、いま上に述べた貧しく生きる羊飼いたちよりも、その頑なさによってイエスが神の子であることを理解できず、かえってイエスに対抗し、その教えを恐れ、ついには十字架の死に追いやった当時の指導者たちに似ていないでしょうか。
もしも私の命が明日取られると分かっていたならば、時間が無いことを悔やむでしょうか。時間が無いなどと言い訳している暇などありません。目を見開き、耳を澄まし、深く息を吸って、五感すべてを使って世界を感じることをしないでしょうか。残された今そのときをいっぱいに生きることにすべての意識や持てる感覚を集中しないでしょうか。いまそのときを味わい尽くさずして明日があると思う無かれ。今日と同じように明日があってほしいと願うことは自然な気持ちですが、明日を迎えられるという保障はどこにもありません。私のいのちはいついかなるときに取られるか分からないからです。今日を生きずして明日を心配するは腐心の始まりです。明日はあしたの悩みに任せなさいと、聖書は教えています。今日というこの日はあなたがこころを尽くしてなすべきことを行い、喜び、生きるために与えられたかけがえの無いときです。本当は、ひとはそれだけで十分なはずなのです。
あなたの心を宇宙にチューニングしてみなさい。そこにはいまそのときのあなたとあなたを取り巻く世界のありのままが映されるでしょう。あなたの心を満たし支配している感情が恥ずかしげに逃げてゆき、代わりに今という自由で広々としたフィールドにいる自分が見えるでしょう。そのとき、雲が晴れて、天からのまなざしが豊かにあなたに注がれているのが分かるでしょう。
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