2007年12月12日 (水)

2007クリスマスメッセージ①

 私が関わっている「特定非営利活動法人 かげんどら」の活動には学習会を中心にしたフリースクールと、若い人たちが自由に利用できる居場所、就労と社会参加の機会としての喫茶・売店部門の3つの活動があります。
 どの活動においても、基本としているのは日ごろ人と関わる機会の少ない若い人たちに「安心して過ごすことができる居場所」を用意させていただくことです。ですから、私たちスタッフの関心は、参加者に「どういう人になってもらいたいか」ということよりも、「いまこの世界をどう感じているか」ということにあります。
 私たちは、若い人たちにとってそこがひとつの社会参加の機会となり、その場において自然に分かち合いが行われることを願っています。そういうことを通してそれぞれが自立への意欲を高めていただく一助となれば、それはそれでまた結構なことだと思います。

 最近、新聞に掲載されたこの国の若者に関する二つの統計結果をご紹介します。そのひとつは10月9日付け静岡新聞、医師が面接して診断した北海道大学研究チームによる調査で、中学1年の一般の生徒122人の内うつ病の有病率が10.7%であったこと。
もうひとつは、高校生新聞社が今年の7月、全国の国公私立高校58校を通じて、高校の人生観を問う調査で、「失敗してもやり直しがきく」と答えた生徒は11%、「今の日本に生まれてよかった」は28%、「努力すれば報われる世の中」は34%、「格差が広がるのは仕方が無い」は29%、「希望の仕事でなくても正社員に」は51%、「将来の年金受給を疑問に思う」は32%、「結婚できない不安を感じる」は25%、という結果が発表され、記事は全国の高校生たちの間で悲観的な人生観が広がっていることがこの調査で分かったと結論しています。

 失敗は許されない、努力は報われない、貧乏人は文句を言えない、結婚できないかもしれない、老後の生活もままならない。これでは何のために高校生生活をしているのか分かりません。社会への信頼や希望を失って、切羽詰った余裕のない若者の心理が見えてきます。先にあげました中学生のうつの有病率の高さは、こうした高校生の社会認識や人生観にかなり近いものが原因しているのではないかと想像します。こういう状況のなかで仲間同士でいじめあったり、生きる意欲をなくしたとしても不思議ではありません。
(続く)

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2006年12月13日 (水)

担うひとと担われるひと

 木立の葉は赤や黄色に色づいたかと思う間もなく、次々と枝をはなれて地上はあたかも華やかな錦の絨毯を敷いたようです。星空は天に冴えざえと瞬いて冬の楽章をかなで、靄にけむる雨上がりの並木道はやさしい日差しを浴びて色彩豊かに輝きを含み、道行く人を和ませてくれます。自然はもうすっかり冬支度を終りました。皆さまにはお変わりなくお過ごしでしょうか。

 子どもたちの居場所「かげんどら」には、ただいま十数名の青年たちが出入りしています。この仲間の他に、出入りがなくてもこの場所や私たちを必要としてくれる青年たちがいます。その彼ら/彼女たちも私たちの仲間です。そこに至るまでの事情はみな異なり、いま背負っている困難やこれから取り組む課題もそれぞれです。私たちはこの仲間の人生のほんのひと時を共に過ごし、背負っているお荷物のほんの少しを担わせてもらい、彼ら/彼女たちが自分の足でここから次の人生に向かうのを後ろから見送ります。

 ときに私たちはある錯覚に陥ります。「共に担っている」と。私たちが仲間に必要とされればされるほど思い違いに陥り易い。ほんとうは、担っているつもりの私自身が歩みのおぼつかない彼ら/彼女たちの背中に担われているのです。私が順調に行っていると感じているときも、困難にあるときは余計に彼ら/彼女たちを必要とし、世界に依存している自分自身を感じます。

 そのような目で世間を見ますと、家庭や職場あるいは様々な社会活動やコミュニティで、人はそれぞれ何らかの立場を持って生活しているわけですが、立場というのはひとがそれを持って世界や他者とのかかわりに入るためのいわば方便と言えます。そして、立場は人があからさまな自分や自分の世界とのつながりを覆い隠す隠れ蓑とも言えましょう。私たちはその立場を離れたとき、ほんとうのお互いの関係を見ることができます。そこではただ人と人が、高い低いの区別なくお互いに依存し支えあっている姿が映し出されるでしょう。

 昨今は「支援」という言葉をよく見聞きしますが、その言葉がどこかウソっぽく、また空々しく響くときがあります。「ボランティア」という言葉もそうです。日本語では「奉仕」という言葉に訳されたりしますが、ボランティアが奉仕と訳されたとたんにそれは日本的な文化の脈絡で語られることになります。良くも悪くも日本の文化には「個人」の存在がないからです。日本の社会においては、支援する側とされる側、ボランティアする側とされる側という立場でしかお互いの関係を説明することができません。もしも、それ以上を説明しようとするならば、もっと多くの言葉が必要になります。

 この点で私たちは、人間とは何か、この世界においていかなる存在であるかを説明するに適当な述語を持ち得ていません。それはある意味では、日本語の言葉あるいは日本の文化の貧しさと言えるかもしれません。語彙の貧しさ豊かさはそのまま社会の成熟を測る尺度でもあります。しかし、もちろん日本には他の点で優れた述語があります。たとえば、「遠慮」という言葉は、私はそれが語られる状況によっては日本的な美しい言葉だと思います。

 「かげんどら」にはいろいろな立場の人が関わってくださいます。そのおひとりお一人がそれぞれの立場からこの場を、ここに実現しているつながりをさらに豊かにしてくださいます。それはほんとうにすばらしいことだと思います。そして、ここで結ばれた絆は、同じように人生に行き悩んでいる人々、飢えや渇きに苦しみ、また孤独や差別に打ち沈んでいる人たちにも及んでゆくと信じていますし、またそうあらねばならないと思っています。
 
 しかし、担うものと担われるものとの関係が一方的で固定しているならば、それがどんなに献身的であろうとも、そこで実現した癒しや再生の経験はその関係者の間に起こった出来事にすぎません。大切なことは、健康、資産、知識、情熱、体力、忍耐、愛情、感性その他、自分に備わるもので多くを持つ者はそれだけ他者に依存しているか、それが他者への依存の結果であるという感覚を持ち合わせるていることです。

 少なくとも私が誰かの役に立っていると感じている人は、役立つだけのものに恵まれているということ、そして一見自分が他者の必要に答えているようで、実は自分はその他者によって支えられているわけで、より多くを与えるものはより多くを受け取っているのです。ですから相手から感謝の言葉を期待するのは愚かなこと。逆に自分に与えられた恵みに手を合わせて感謝しなければならないところです。

 このように目に見えないほんとうの人間存在の有様と世界との相互関係を心の目で見て悟ることができるならば、世界はあなたのいるその場から必ず変わり始めるでしょう。私は信じます。あなたに訪れたその平和はあなたの周りで実現されれば、それはあなたのところにとどまらず、必ず世界で悲しみや苦しみの中にある人々の上にも及ばないではいないでしょう。世界に平和を実現するために行動を起こすことはすばらしいことですが、あなたやあなたの周りに平和がなければその行動にどんな意味があるでしょうか。

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2006年12月 5日 (火)

私からのメリークリスマス ⑤

「貧しさには国境がありません」

 アジアやアフリカ、中南米の貧しい国々、いわゆる第三世界と言われている国々の社会の底辺で貧しさにあえいで生きている人々がいるかと思えば、この国の社会のように物の豊かさの陰で見捨てられ、忘れられ、誰からも省みられず、愛されていないと感じている人々、つまり自分は誰からも必要とされていないという思いに打ちのめされている人々がいます。インドの貧しさとこの国の貧しさ、貧しさの中身は異なりますが、食物や愛に飢えている人々を生み出す<社会の貧困>という点では同じです。

 今世界では、スーダン、アフガニスタン、イラク、パレスチナ、ネパール、チェチェンそのほか内戦や紛争下にある人々の存在が置き去りにされ、私たちの目から隠され、世界から忘れ去られようとしています。国際社会は国益や経済的な見返りの無いところに関心のかけらすら向けようとしていません。日本の隣国やイランの核開発に比べたら、実弾が飛び交い、町や村が破壊され、民族浄化の恐怖におののく人々、特に真っ先に犠牲となる子どもや女子、お年寄り、障がいを持つ人々など弱い立場にある人々の存在に先ず目を向けなければならないというのに。外に向かっては信じられないほどの無関心と冷淡、人々に敵意や憎しみの意識を植え付け、規模と格差においてますます広がる貧困を生み出しておいて、内に向かっては国を守ること、戦争のできる国づくりにまい進することのいかに愚かなことか。自分の国だけが安泰でいられるはずがありません。

 貧困はお金でも近代兵器やどんな堅固な防衛システムでも守ることができません。貧困は国境をものともせず、形を変えてこの国の社会をも食い尽くさずにはおかないでしょう。貧困はすでに私たちの社会を蝕んでいます。この社会は見えない世界に対する感受性と想像力、世界への信頼と希望、愛やいたわりを失っているように見えます。先のマザー・テレサのお話の中に出てきたあのヒンドゥーの母親と子どもたちの目の輝きに、私たちはもうめったに出会うことがなくなりました。

 今私たちに必要なのは分かち合うことです。あのヒンドゥーの母親がしたように。私の中に、私たちの間にある貧困を知ること、そして愛を分かち合うことです。分かち合いは人の心に平和を呼び覚まします。分かち合うためには、自分と共に担い、自分が差し出すものを受け取る人を必要とします。平和とは、実に他者や世界と具体的に関わり、つながることによって実現されます。

 自分の心に平和な気持ちを宿すことにもっと関心を向けましょう。そうすれば自分を必要としている人のまなざしに気がつくでしょう。その人はあなたの家族かも、あるいは隣の家族かもしれません。あなたが住む地域には家族からも社会からも顧みられずに生きる居場所をなくした人々がいます。自分の回りが平和になってそれで世界が変わるというのでしょうか。変わります。貧困に国境がないように、豊かさにも国境がありません。あなたに宿った喜びや私たちの周りで実現した平和は、たとえささやかなものであっても必ず他国に及ばずにはいないでしょう。大切なことはその実現を信じることです。信じるとは、目に見えないものの存在や来るべきものの実現を確信し、希望を持って祈り、たえず願い求めることです。平和を実現する人は幸いであると、イエスが諭されたみ言葉を今一度噛みしめたいと思います。このクリスマスに。

 一粒の雨の音に/心をとどめてみよう。/そうすれば、/人類の歴史に及ぼす/自分の人生の意味が/わかるだろう
 (アントニー・デ・メロ作『心の歌』より)

 クリスマスは、約2000年前ユダヤの国、今のイスラエルに神の独り子としてお生まれになったイエス・キリストの誕生を祝い、それを記念して行われるキリスト教の祭りごとです。その中心テーマは、もちろん誕生ですが、イエスの生涯に行われた数々のみ業、教え、そして十字架の死と復活を通して、今を生きる私たちの救い主となられたということに思い至るとき、2000年前の出来事では言い尽くせない深遠な意味があります。
 世間ではプレゼントを交換したり、木に電飾をしたり、飲み食いしたり楽しみが多い時期ですが、世の華やかさとは反対に、キリスト教徒はこの時期、自らの信仰を省み、神の子を自らの内に迎えるにふさわしい者とされるように祈りつつ慎ましく過ごすように勧められます。
 教会暦ではクリスマス前の約4週間をアドベントと言って、この期間クリスマスを迎える準備をします。アドベントの始まりの日は日曜日で教会暦の一年の始まりと定められています。今年のアドベントは12月3日スタートです。

 「私からのメリークリスマス」終わり

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2006年12月 2日 (土)

私からのメリークリスマス ④

マザーテレサ「貧しい人たちを知っていますか」(私訳)

以下の文章は『Heart of Joy Mother Teresa』(マザー・テレサ著、1998年Collins Fount Paperbacks刊)からの翻訳の一部で、当ブログの連載『私からのメリークリスマス』のなかのひとつの章としてご紹介させていただきます。

 私がアメリカ合衆国に旅立つ2,3週間前のある夜こと、ある人が私たちの家に来てこう言うのです。「8人の子どもがいるヒンドゥーの家族はもう何日も何も食べていません。」
 私はすぐに少しばかりのお米を持って彼らのところに行きました。その母親は私の手からそのお米を受け取って、それを二つに同じように分け、すぐに出て行きました。
 彼女が戻ってきたとき、私はどこで何をしていたのか聞きました。
 「あの人たちもおなかをすかしているのです」と、彼女は言いました。
 その家族のすぐ隣にはイスラムの家族が住んでいて、やはり同じ人数の子どもが住んでいるのです。私からお米を持って行ったそのヒンドゥーの母親は隣の家族が何日も食べていないこと知っていました。彼女はイエスがなさったのと同じことを行いました。つまり、彼女はパンを裂いたのです、愛というパンを。そしてそれを彼女の隣人と分かち合ったのです。
 私はその子どもたちの表情を言葉で言い表すことができません。私がその家に入って行ったとき、子どもたちの苦しむ顔が見えました。私は彼らの目が空腹を訴えているのが分かりました。ところが私がその家を出るとき、その同じ彼らの目は喜びの光を放っていました。どうしてかと言うと、母親も子どもらも彼らの愛を他の人と分かち合うことができたからです。

 この出来事でとても印象深かったのは、その女性が<知っていた>ということです。私たちは自分の近くにいる貧しい人々を知っているでしょうか。私たちの家の中に、私たちの家族にいる貧しい人々を知っているでしょうか。たぶんその人たちは一切れのパンを欠くほど飢えてはいないでしょう。たぶん、子どもや夫や妻は飢えてはいないし、着る物が無くて裸で過ごすこともないし、住む家を追い立てられることも無いでしょう。しかし、その代わりに、そこには自分は必要とされていないとか、愛されていないと感じている人はいないでしょうか。あなたの老いたお父さんやお母さんはどこにいますか。

 ある日、私はある施設を訪ねました。そこは私たちのシスターが身寄りの無いお年寄りを受け入れる施設だったのです。イギリスで最もすてきな家で、きれいで高価なものがいっぱい揃っていますが、そこに住む人々の顔にはまったく笑顔がありません。お年寄りたちはみな入り口のドアをながめ続けているのです。
 私は係りのシスターに、どうしてここのお年寄りはそうなのか、なぜ人々に笑顔が無いのかと尋ねました。(私は人には笑顔があるものと思っていましたから。笑顔は笑顔を呼び覚まします。ちょうど愛がほかの愛を呼び覚ますように。)
 シスターはこのように答えました。「毎日同じことの繰り返しです。この人たちは誰かが自分に会いに来てくれるのをいつも待っているのです。孤独がこの人たちを食い尽くして、来る日も来る日もそれをやめないのです。でも、誰も来ません。」

 見捨てられること、それは恐ろしい貧しさです。

 ロンドンの町を夜回りしていたとき、きれいな長い髪をした10代の少年が座り込んでいるのを見つけました。
 私は彼に「こんな時間にここにいてはいけません。あなたのご両親の元にいなさい。ここはこの時間、こんなに寒い夜に居るべきところではありません」と言いましたら、彼は私をじっと見て、言うのです。「お母さんは僕が髪を長くしているので、僕なんか要らないと思っているんだ。」
 他にその子がそこに居る理由はありませんでした。ひとりの若者、まだほんの10代の子どもが自分の母親から拒否されているのです。そのときふと次のような想いが浮かびました。もしかしたら彼の母親はインドやアフリカ、第三世界の飢えた人々に関心を持っているかもしれない。もしかしたら彼女は自分の家以外のすべての人の必要に応えたいと熱心に思っているかもしれない。彼女は自分の家に貧困と飢えがあることを知らないでいます。その飢えをもたらしているのは他でもない彼女自身なのです。
 

 それこそ私が次のようにお聞きした理由です。「私たちは自分たちの貧しい人々を知っていますか。私たち自身がいかに貧しいか知っていますか」と。

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2006年11月30日 (木)

私からのメリークリスマス ③

「私の『十二月の歌』」

茨木のり子の詩をもうひとつご紹介します。

茨木のり子「十二月の歌」より、
 熊はもう眠りました/栗鼠もうつらうつら/土も樹木も/大きな休息に入りました
 ふっと/思い出したように/声のない 子守唄/それは粉雪 ぼたん雪
 師も走る/などと言って/人間だけが息つくひまなく/動きまわり
 忙しさとひきかえに/ 大切なものを/ ぽとぽとと 落としていきます

 大切なものとは・・・

 生まれてこの方、ただただ無限に与えられた時間という揺りかごに育てられて、その時代時代を過ごさせてもらったこの幸せを当たりまえと思ってはいないでしょうか。その恵みにせめてもの感謝の気持ちを込めて、茨木流に言うならば、あえて師も走るといわれるこの時にこそ、私に賜った「この時」にのしをつけてお礼を言うくらいのことはさせてもらってもいいかなと思ったりします。気持ちを込めて深くいまを味わえば、私のいのちが実に多くの人によって育まれ、いまも支えられているということに思い至ります。

 時間とは、ひとそれぞれに永遠から分け与えられたものであり、ひとがこの世に生まれるときいただいて、死ねばお返しするものです。僅か天と地の間に存在が許された束の間、それが人生です。その時間を自分が所有するものと考え始めたとき、人はあらゆるものを自分の中に溜め込み、飽き足らず、与えることを惜しみ、他者の時間までも欲する貪欲のとりこになります。私たちは愚かにも、スケジュール帳を予定で満たし、世界を自分の都合のいいように切り取って、自分が時間の主人であるかのような錯覚に陥ります。その結果、いのちは永遠から切り離され、いのちのつながりが隠され、ひとの人生はこの世の秤でなんぼのもので量られることになるのです。

 人の幸せを量る時間とはそもそも科学者が分析するような対象ではありません。有限な人間が無限を量ることはできません。僅かに与えられたこの束の間を秤にかけて多いとか少ないと言って何の益があるでしょうか。時間は天に属するもの、そう悟るとき、今この時が何ものにも代えがたく貴重に思えてきます。自分と永遠とのつながり、そしてこの世界でまた世代を超えて私に連なるすべてのいのちが想われます。そのとき、私に許された時間をどのように用いたらよいかがおのずと明らかにされるでしょう。

 人はこの世にただ捨て置かれてはいません。人には誰も生まれた意味があります。人にはみなこの世で果たす役割があります。人はそのために支え合い、弱きも強きもお互いの存在を必要とします。他者を必要とすること、他者から必要とされること、そうして人や世界と具体的につながること、それは人の喜びです。喜びは天上のもの、天にあるものを地上でも求めなさい。私たちは喜ぶために生きるのです。

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2006年11月29日 (水)

私からのメリークリスマス ②

「喜びなさい、天にはあふれるほどの時間がある」

いろいろな事情が重なって、不覚にも忙しさに追われる日々を過ごしていました。そんな心の状態でしたから、人の中では気を張っていても、そこに暮らしの心配や健康の不安など先々の不透明さが加わって、もしかしたら独りでいるときの自分の顔を曇らせていたのではないかと思われます。

忙しい、時間が無い。でも、ちょっと待って、その時間は誰のものですか。ストレスによってからだが歪んでいく感覚の底から、一筋の光明がさすように、そんな問いが心に浮かんでまいりました。助かった。

そのとき私の心にこんな声が響いていました。

天上にはあふれるほどの時間がある/天にあるものを地上でも求めなさい/求めれば与えられる/天上ではあなたが望む前に/すでにあなたにちょうど良い時間が用意されているから。

そして、すべての思いわずらいを天にゆだねて/今ここにいることを喜びなさい/いつも喜びなさい/喜びは天上のもの/ひとはお互いに喜び合うために生まれているから。

イエスがユダヤの町を巡り歩いていたとき、多くの人のからだと心を癒されたことが聖書に記されています。その中にはからだの不自由な人、目の見えない人、心を病んでいる人、ハンセン氏病や癒しがたい病を患っている人、出身や仕事によって社会的差別を受けている人など、生きる希望を失い、社会の底辺でうめき苦しんでいる人々がいました。人々はイエスと出会って癒され、心もからだも新しくされました。イエスは2千年前のユダヤの社会という限られた時間と場所で生涯を送られましたが、同時に彼は神の子として神の性質である永遠の時、永遠のいのちをそのうちに宿していました。幼子のようにイエスに出会って人生を変えられた人たちが喜びに満たされたとき、その人々はイエスと共に神の国にいたことでしょう。そして、復活のイエスは今も私たちの間に居られるのです。

最近、友人からいただいたお便りに茨木のり子の詩「自分の感受性くらい」が紹介されていました。

 「ぱさぱさに乾いてゆく心を/ひとのせいにはするな/みずから水やりを怠っておいて

‐‐‐(略)‐‐

自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ」

時間が無いことをひとや仕事のせいにするな。時間が無いということを言い訳にするな。天に願いもしないで、ばかものよ、と叱られたようでした。

    天の星々の瞬きや打ち寄せる大洋の波のリズムが人の鼓動と共鳴し、まだ天上の世界と地上が人の意識において分かちがたく共存していた原始の昔、永遠という名の揺りかごにまどろみ、自由に時空を超えて闊歩していた人たちが、時間という道具を天から賜って得意げに振舞ったり、時間に追われていのちを無駄使いしている現代人のこのありさまを見たら、きっと智恵も想像力も感受性も乏しい憐れむべき末裔と嘆いたかもしれません。

  よくクリスマスに語られる聖書物語があります。イエスの誕生を最初に知らされたのは権威ある者たちではなく、野宿しながら夜通し羊の群れの番をしていた羊飼いたちでした。安定した生活を保障する地位も明日に持ち越す僅かなお金も家族と共に住む家もない、その日暮らしの羊飼いたちにお告げがあったということは、その後のイエスの働きや貧しいものは幸いであると諭されたイエスのメッセージを象徴しています。

  その夜、野宿している羊飼いたちに天使が現れ、言われた「民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」そしてこの天使に天の大群が加わり神を賛美して言った。「いと高きところには栄光が神にあれ、地には平和が御心にかなう人にあれ。」羊飼いたちはさっそく天使が告げられたその出来事を見に行った。彼らは見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながらかえって行ったと、イエスがお生まれになったそのときの物語が聖書に記されています(新約聖書、ルカによる福音書第2章820節)。

  後にイエスは、ユダヤの社会にあって権威ある者や宗教的な指導者として敬われている人々から、あなたの言う「神の国」はいつ来るのかと尋ねられたとき、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなた方の間にあるのだ。」と答えられました。神の国はあなた方のように、見ようとしないものには現されず、信じないものには開かれない、神の国は今ここにあるというのに、あなた方はいったいどこをみているのか、と。

  目に見えるものにとらわれて、大切なものと引きかえに心を暗くさせ、生き悩み呻吟している現代の私たちの感覚やその生き様は、いま上に述べた貧しく生きる羊飼いたちよりも、その頑なさによってイエスが神の子であることを理解できず、かえってイエスに対抗し、その教えを恐れ、ついには十字架の死に追いやった当時の指導者たちに似ていないでしょうか。

  もしも私の命が明日取られると分かっていたならば、時間が無いことを悔やむでしょうか。時間が無いなどと言い訳している暇などありません。目を見開き、耳を澄まし、深く息を吸って、五感すべてを使って世界を感じることをしないでしょうか。残された今そのときをいっぱいに生きることにすべての意識や持てる感覚を集中しないでしょうか。いまそのときを味わい尽くさずして明日があると思う無かれ。今日と同じように明日があってほしいと願うことは自然な気持ちですが、明日を迎えられるという保障はどこにもありません。私のいのちはいついかなるときに取られるか分からないからです。今日を生きずして明日を心配するは腐心の始まりです。明日はあしたの悩みに任せなさいと、聖書は教えています。今日というこの日はあなたがこころを尽くしてなすべきことを行い、喜び、生きるために与えられたかけがえの無いときです。本当は、ひとはそれだけで十分なはずなのです。

  あなたの心を宇宙にチューニングしてみなさい。そこにはいまそのときのあなたとあなたを取り巻く世界のありのままが映されるでしょう。あなたの心を満たし支配している感情が恥ずかしげに逃げてゆき、代わりに今という自由で広々としたフィールドにいる自分が見えるでしょう。そのとき、雲が晴れて、天からのまなざしが豊かにあなたに注がれているのが分かるでしょう。

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