2007年4月 2日 (月)

安らぎの居場所

 以下の文章は「日本聖公会横浜教区報」4月号に掲載したものを基にして書き改めたものです。

 人生の目的を見失ったり、疲れて途中で立ち止まりたくなったとき、心を癒して気力を回復するために、安心して静かに時を過ごすことができる配慮された環境が必要です。しかし、今の日本の社会にはそのような場所があまりにも少ないと私は常日ごろ思っています。必要を感じて探しても本当に無いのです。人生の危機は誰にもありえることです。そもそもそのような発想が私たちのいまの社会には乏しいのだと思います。人生の危機に際して周囲から有形無形の責め苦を受けながら経過するのと、そのときだからこそ大切にされて経過した経験を持つのとではだいぶ違います。そうしたひとり一人の体験の蓄積はやがてはその社会のあらゆる場面に反映されるでしょう。

 若い人たちの安らぎの居場所「かげんどら」は今年で17年になります。私の仕事は若い人たちの魂のお世話です。理不尽にもいろいろな事情で人生に行き悩み、旅に疲れ、痛手を負い、自信や希望を失い、社会や家族から孤立し、居場所を失った若者を受け入れます。そして彼ら/彼女たちの苦労をねぎらい、安心して荷を降ろしてもらえるように居場所を整えます。この時代に生きる者の一人として、自分に与えられまた許されたすべてを持って福音的な業に与かり、平和を作る器とならせていただきたい。そう祈りつつ、私にとっての隣人とは誰かを尋ねていくなかで、さまざまな背景や事情を持った若者との出会いを通して「かげんどら」がだんだんと形づくられてまいりました。

 その初期のころ、運営に行き詰まりを覚えてイギリスの修道院を巡る旅をいたしました。そこで印象的だったのは、門を叩く人を受け入れるときの丁寧さ、行き届いた配慮を持った魂のお世話、滞在者への適度な距離、これらは私が訪れたどこの修道院にも共通していました。この「イギリス巡礼の旅」から、私は「かげんどら」のその後の歩みにおいて模範とすべき貴重な示唆をいただきました。

 活動場所が新たに与えられて、10年間お世話になった静岡聖ペテロ教会を出たとき、代わりにそこを祈りの場所にできたらと思いました。私がここに遣わされた意味を心に刻み、ここに集う若い人たちに仕えさせていただくことができますようにと祈る。この祈りが、いま安らぎの居場所を必要としている人たちに届くことを願います。人生の危機を大切にされて経過した体験を、この場においてたとえひとりでも持つことがでれば、この社会はそのひとつ分だけ豊かになれそうな気がするのです。

 今日も「かげんどら」では若者たちと私たちスタッフ、そしてこの場を根気良く支えてくださる支援者との間に分かち合いが実現しています。今後ともこの貧しく小さな群れをお覚えいただければ幸いです。

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