2009年7月 2日 (木)

社会全体で子どもを支えるシステムをつくる⑥

ひきこもり「問題」解決に有効なツールは手の内に、後はそれを使う明確な意志の問題

 全国で100万人のひきこもる人々。その人々を支える100万の家庭。そして毎年その仲間に入る多くの人々。これらの人々はその存在は社会から認知されているにもかかわらず、その存在の特殊性からいわば社会的支援から見放されている人々です。とりあえずは自分と関係がない人々を愛することは難しい。想像力を働かさなければふだん出会うことはない人々です。しかしわたしたちは、今ここであのイエスが「幸い」といった言葉を思い出します。

この「幸い」という言葉を世俗における世界共通語に翻訳すれば、人権という言葉が適当でしょう。世界人権宣言の第1条に「互いに同胞の精神を持って行動しなければならない」とあります。人権とはどのような境遇にある人にも(たとえそれが監獄にいる犯罪者であっても)人である限り等しく与えられる権利です。人権に優劣とか多い少ないはありません。人権にとって大切なことは、自分の人権を大切にしたいのであれば、他者の人権をも自分と同じように尊重しなければ意味がないということです。他者の人権をないがしろにしたところに自分の人権はありません。

ひきこもりはこの稿のはじめに書きましたように第1義的には病気でも障害でもありません。何らかの社会的ストレスから回避するための緊急避難的反応で、その反応(行為)そのものは正常でなんら問題はありません。ですから、ひきこもることを悪者にしてそれをなくすという方向で諸策を講じることは的を射たものとはいえません。ただ、ひきこもり状態が必要以上に長引くことから生じるさまざまな問題は放置するべきではないと思います。その問題は家族だけではなく、社会全体が担うものです。そしてわたしたちはその問題解決のために有効なツールを潜在的にはかなり持っているのではないかと思います。ひきこもり「問題」がわたしたちに投げかけていることは、先の児童労働のところでもふれたように、最終的には問題解決に向けた社会の強い意志その一点にかかっているのではないかと思います。つまり、この問題に社会全体で本気で取り組む覚悟があるのかと問われていること。高齢者介護も大事ですが、次の社会を担う若者の社会参加と社会的自立を促すため社会全体が揺り動かされるような仕組みができないものかと想像力を働かせてみるのです。

わたしたちは児童労働の報道を見聞きするたびに心が痛みます。児童労働の原因はますます広がる経済格差、貧困です。その貧困の原因の片方の当事者である私たちの社会にも別な意味での貧困があります。世界や他者と生き生きと出会うことができない心の闇。心の目で見れば、この二つの貧困はコインの表と裏の関係にあります。2000年前のエルサレムでイエスは弟子たちに互いに足を洗うという模範を示しました。このことが長い歴史を経た今も私たちの社会が指摘されるべきいちばんの問題であるこということは、驚きでもあります。進歩とは一体何なのでしょう。私たちは、今、この世界でわたしたちに与えられた責務を潔く引き受けて、できることならば、受け取ったときよりは少しでもましな状況で次の世代にバトンを渡したいと心から願います。

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社会全体で子どもを支えるシステムをつくる⑤

ひきこもり「問題」は家族から離れて社会保障の枠組みで考えましょう

これらの価値を実現するために努力しなくてはならない責務を負っているのは社会の構成員一人一人です。つまり、わたしたち。親や家族ではなく、ましてや本人でもありません。子どもを養い育てる責務は先ず親にあります。しかし、子どもが成人に達した後は、上に掲げた人権の趣旨に照らして、親としては子どもや社会に対してもう社会的道義的責任を取らなくてもいいのではないかと思います。つまり、社会保障の枠組みの中でひきこもりの「問題」を考えるようにしたらどうでしょうか。

以上の問題点について、現在の日本の社会福祉サービス、とくに高齢者福祉と障害者福祉に多くの示唆を見出すことができます。国が定めた社会福祉の理念は1951年に制定された「社会福祉事業法」や2000年に改定された「社会福祉法」に謳われています。キーワードは「個人の尊厳」、「心身の健やかな育成」、「自立」、「社会参加」。これらは上にご紹介した人権条約や憲法の理念と共通しています。現在の社会福祉の諸施策はこのような約束事の積み重ねの上に立っています。

とはいえ、介護は社会全体で担うというのが大前提なのですが、いまなお高齢者介護や障害者介護の多くを家族が担わざるを得ないというのが現実。社会的ひきこもりの人々やひきこもりの人々を支える家族は、制度以前の問題でいわば福祉サービスの谷間にある人々です。人権条約や憲法の理念からいって、これらの人々にも同じようにこうした理念が実現されるように、社会からの適切な援護が必要であることにかわりはありません。

 現在実施されている高齢者や障害者に対する福祉サービスの内容とサービスを受けるに際しての手続きは、制度や制度の適用上の不備は不備として、まだ改善するべき点が多くあるものの、ひきこもりの人々とその家族を支えるための方法としてたいへん参考になります。ひきこもり「問題」の解決として有効なツールがいくつも散見されます。ほんの一例を挙げれば、経済的面での支援策として年金、保健、生活保護の適用、生活面ではヘルパーの利用、グループホーム、デイ・ナイトケア、一時保護、親へのレスパイト・サービス、就労面では、能力・段階に応じた就労支援策、ジョブコーチ、スキルアップ事業、行政の対応として横断的な連携、一元的で総合的な支援諸施策など枚挙にいとまがない。

 ひきこもるには理由があります。必要があって一旦社会から身を引きます。しかし、必要以上にひきこもりを長引かせていい理由はありません。ひきこもる人々に社会参加してもらうには、社会参加しやすい環境を家庭の内と外とで作ることです。問題を単純化して申し上げれば、社会参加を妨げる家庭内の要因とは、家庭内にひきこもれる環境(家族による保護)があるということ。社会参加を妨げる家庭外の要因とは、ひきこもる人々が社会復帰(リハビリテーション)するための足がかりが社会に皆無であるということ。上述したような経済面、生活面、就労面における配慮がまったくありません。これはひきこもる人々に対して、ひきこもり生活に入ったのは何らかの理由があったにせよ、社会復帰については自己責任でお願いしますと言うようなもので、これを悪く解釈すれば、このような無策、不作為はひきこもる人々に対して社会に出てくるなと言うに等しい。

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社会全体で子どもを支えるシステムをつくる④

「コップの中の嵐」に過ぎないひきこもり問題

社会的ひきこもりの何が問題かといいますと、第一に私たちの社会は引きこもる人々に対して正当な地位と市民権を与えられないでいるということ。社会が引きこもるという行為を正面から受け止められないでいるということに由来するさまざまな、そしてその多くは家族関係に現れるかなりの混乱と、本人とその関係者である家族が長期にわたって精神的に抑圧される状況が持続することに由来する医療・精神保健上の問題です。問題状況が表れる現場はいつも家庭です。家庭以外では何も問題はない。しかし、社会的ひきこもりの数は全国で60万人から100万人の規模で存在すると言われています。多い方の100万人を取るとすると約100万世帯が社会的引きこもりの当事者を抱えていることになります。ひきこもり状態を抜け出す人がいる一方で新たにひきこもる人がいて、全体としてひきこもり年齢は高齢化しています。ということはその親もまた高齢化しているということです。親が必死になってひきこもる子どもの世話を一手に引き受けている間はこの問題は解決しないのではないでしょうか。社会が問題を突きつけられる以前に、家庭がその防波堤の役目を果たしています。今のところ問題状況があるとすればそれは家庭の中ですから、社会から見ればそれはコップの中の嵐にしか映りません。

行き着く先は大方予想がつきます。ひきこもる期間が長期化すれば親は子どもの面倒を見ることができなくなる。経済的にも精神的にも限界をむかえる。親が倒れれば、子どもは行き場がなくなる。老老介護ではないけれども、それに近い状況が珍しいことではなくなる。その事態に臨んでわが国の政治は舵をきることができるでしょうか。行政は対応できるでしょうか。超高齢化社会がもうすぐそこまで来ている。2015年には65歳以上の高齢者人口は3,200万人、総人口に対する高齢化率は26%、国民の4人に一人は65歳以上となる。権利を求める声はこちらが優る。社会保障に係る費用の大方はこちらに充てざるを得ない。優先順位はおのずと明らかです。

しかし、社会的引きこもり100人(世帯)という数は決して放置することはできません。不安をあおる報道に接して危機感を抱く人もいるでしょう。原因が特定できない。誰にでも起こりうること。でも、とりあえず自分は当事者ではない。そのうち誰かがなんとかしてくれるだろう。結局自分の問題とはならない。

現在、全国の自治体は保健所や児童・教育相談所等の機関を拠点にひきこもる子どもがいる家族支援を行っています。ひきこもりに係る民間団体も家族支援を問題解決の有効な手段として位置づけて活動しています。政府のパイロット事業として自立支援ホームといったような当事者を対象とした事業もあります。

しかし、これらの対策は、いつかわたしがこの欄でふれたように対症療法の域を出ていません。大方の非当事者にとっては所詮「コップの中の嵐」であることに変わりはありません。誰かがやってくれているわけです。ひきこもりの人々は決して社会から見放されているわけではありませんが、当事者ではない人々にとっては他人の家の話。それゆえ手の届かない、手の出しようがない繊細であり、良心的であろうとするならば遠目に見ているほかはない厄介な問題かもしれません。

2002-2003年、NHKで行った「ネット相談室」に寄せられた3000件の相談によると、30歳代以上のひきこもりが全体の3割、5年以上のひきこもり経験者は 3割。そのデータからはひきこもりの高年齢化、長期化が読み取れます。ひきこもりは一般に長期になればなるほどそこから抜け出すのが困難になると言われています。ひきこもりの家族会の集まりでも高齢の方が少なくありません。本人と親の両方の立場に立ってみて、もっと早い段階でなんとかならなかったのかと痛ましささえ覚えます。親はどこまで子どもの面倒を見なくてはならないのか、と自分の子育てと重ね合わせてみても考えさせられる問題です。前傾の聖書の話ではないですが、親は自分の子どもの足を生涯洗い続けなければならないのか。「足を洗わないのなら、何のかかわりもないことになる」といわれたイエスの言葉は、自分の子どものことを指して言っているのか。そうではありません。では、誰の足のことを言っているのでしょうか。

前掲の障害者の権利条約の理念(5頁)をふまえて、世界の誰もが認める最高の価値基準からこの問題を考えてみたいと思います。

・世界人権宣言第1条  すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

・世界人権宣言第3条  すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。

・日本国憲法第13条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

・日本国憲法第25条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

(2)  国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

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社会全体で子どもを支えるシステムをつくる③

バリア(障壁)が社会にあるとすればそれを取り除くのは社会の責任です

2006年12月、国連総会で「障害者の権利条約」が採択されました。21世紀ではじめての権利条約です。この権利条約は、福祉という主観的で、時と所によって相対的な価値を持つ言葉ではなく、人権という世界共通語によって障害を持つ人の権利を表わしていることが重要です。

障害者の権利条約の原則から上位にあるものをまとめてみます。

1は、人間としての尊厳、個人の自律と自立を尊重すること。

2は、差別の禁止、障害の差異を人間の多様性の一部として尊重すること。

3は、完全な社会参加と機会の平等

この障害者の権利条約は障害者の権利獲得の歴史においてひとつの輝かしい記念碑的な地位にあります。この頂に到達するまで、世界の障害者は文字どおり自らの命をかけて権利獲得の足場を築いてきました。このように今まで社会的弱者と見なされていた人々、特に障害者や子どもの人権について、国際的な基準が一応出来上がり、これ以降はこの世界の「共通言語」を援用して当事者の権利を擁護し、また人権に係る問題への理解を求めていくことが可能となりました。

ここで、この脈絡において「社会的ひきこもり」にある人々のことについて考えてみたいと思います。この人々はその大半がもはや子どもではありません。第一義的には病気ではありませんし、障害者でもありません。しかし、この人々は子どもの権利条約が保障する諸権利、「生きる権利」、「守られる権利」、「育つ権利」、「参加する権利」が同じように守られているでしょうか。障害者の権利条約で上に挙げた諸原則が同じように守られているでしょうか。そもそも、社会的自立や社会的参加を拒む人にたいしてその権利を保障することにどのような意味があるのか。

児童労働にかかわる子どもは権利を主張しませんが、そういう状況にある子たちこそ子どもの権利条約が必要です。同じように、権利を主張しない障害者は多いけれども、権利を主張しない人々や持てる障害等によって権利を主張できない人々もまた同じように権利が保証されて当然です。子どもには等しく教育を受ける機会が与えられる。必要ならば学校や学校へのアクセスを保証する。例えば安全な通学路を作る。コミュニティの中で子どもを育てる等。障害者にたいしては等しく公共へのアクセスを保証する。例えば、公共施設の段差にはスロープを設置する。学校は施設の不備を理由に入学を拒んではならない等。こうした配慮は社会の構成員全体がその責務を負います。

つまり、人として当然あるべき姿を実現するときに、その人にその意思があるかどうかということは問題ではありません。問題は、人が人として当然あるべき姿を実現するときに何か妨げや支障があるならば、その妨げや支障を取り除く責任は社会あるいは社会を構成する一人一人にあるということなのです。

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社会全体で子どもを支えるシステムをつくる②

ふだん意識しなければ済んでしまうような人々と出会うこと

新約聖書ヨハネによる福音書13章にイエスが弟子の足を洗う場面があります。まもなく処刑されることを悟ったイエスは、弟子たちとの晩餐の最中、席を立って弟子たちの足をひとりずつ洗い始めました。この当時足を洗うのは奴隷の仕事でした。そこで弟子の一人ペテロは「私の足など、決して洗わないでください」と拒みます。イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられました。弟子の中にはすぐこの後でイエスを権力に売り渡すユダもいました。イエスはそのことを承知の上でユダの足も洗いました。

再び皆が食事の席につくとイエスは弟子たちに次のように言います。あなた方はわたしを先生と呼ぶ。そう呼ぶからには、先生であるわたしがあなた方の足を洗ったのだから、その模範に倣ってあなた方も互いに足を洗い合いなさい。そのとおりに実行するなら、幸いである。

同じ食事の場面で、これに続いてイエスは弟子たちに「新しい掟」を授けます。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」

しかし、この掟を守ることがとても難しいことにすぐに気がつき、足が止まります。自分に好意を持つ者を愛することは簡単ですが、自分に対して敵意や悪意を持つ者を愛することは不可能のように思われます。愛することが難しい人々は他にもいます、自分と関係がないと思われるような人、普段の生活において意識しなければしないで済むような人々の存在です。自分に関係のない人を愛するなんて、そもそも意味があるのでしょうか。「その通りに実行するなら、幸いである」といったイエスの言葉がその意味を探る手がかりとなりそうです。

ところで、今ここで「不可能のように思われる」と書いた人々について、本当に不可能なのかと自問してみるのです。社会状況が変われば、時と場所が変われば、誰かが自分の傍にいてなだめたりとりなしてくれたら、そして自分の側の事情が変わったとしたらどうか。相手を理解したり関心を持とうと努力したか。愛することができるように祈ったか。1年後も状況は同じか。10年後、20年後も事情は変わらないか。希望はまったくないのか。それでも希望は・・・「ある」と思いたい。

イエスは模範を示しました。人は模範に倣うことしかできません。神は模範に倣う以上のことを人に求めてはいません。模範に倣った多くの先人たちがいます。そこに人としての可能性を見ることができます。はじめから不可能としてしまうのではなく、かかわりを切ってしまうのではなく、想像力や関心を途絶えさせてしまうのではなく、模範に倣うこと、倣おうとすることに人としての幸いがあるように思います。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言ったイエスの言葉を現代に生きる私たちの世界に置き換えていま一度心に留めてみたいと思います。

人生は出会いの連続です。その多くは何事もなく忘れ去られていく些細な出会いですが、中には人生の方向を変えてしまうほどの決定的な出会いもあります。人は生涯を通して幾つもの出会いを経験することによって、人とは何であるのか、自分は何者であるのか、生きるとはどういうことなのか等についての考えを深めていきます。出会いには人生経験に応じてそれにふさわしい出会いが用意されます。人生経験の少ない人にはそれなりに、経験の豊富な人にはそれにふさわしい出会いというように。意識してかしないかはともかく、求める気持ちがあって、それが積もって、あふれ出して、というように、決定的な出会いにはそれに至るまでの必然的な経緯やストーリーがあります。キリスト教の経典である新約聖書には、イエスと出会うことによってその人の人生が変えられてしまうストーリーがいくつもあります。聖書はもちろん信仰のための書ですが、読み物としてもたいへん興味深い書物です。ふだん意識しなければしないで済んでしまうような人々と出会うこと、これはとても難しいことのように思われますが、私たちが幸せになるための鍵がそこにあるのではないかと思います。出会いの仕掛けは多い方が良い。しかし今の世の中、なるべく両者が出会わないで済むような仕組みへとますます変わりつつあります。

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社会全体で子どもを支えるシステムをつくる①

社会の明確なノーサインが児童労働を防ぐ

あまり知られてはいませんが、この稿を書いている6月12日は「児童労働反対世界デー」。国際労働機関(ILO)が毎年主催しているキャンペーンで、国内外のさまざまな機関や市民団体が呼応して児童労働反対の意思表示を行う。

以前にもこの欄でお伝えしたことですが、ILOの統計によれば、世界で約2億4600万人の子どもたち(5-17歳)<世界中の子どもの6人に1人>が「児童労働」をしています。その「内最悪の形態での労働」に従事している子どもは840万人。最悪の形態とは強制労働、債務奴隷、子ども兵士、買春・ポルノ、不正な活動を言います。児童労働の割合が最も高いのはサハラ以南のアフリカ地域で、4人に1人が児童労働に従事しています。

最近私はレオナルド・ディカプリオが主演した映画「ブラッド・ダイヤモンド」を見ました。この映画の中でダイヤモンドの利権に絡んだアフリカの子ども兵士の様子が描写されています。ダイヤモンドを販売店で購入するときは、紛争地帯で不正に生産・取引されたものではないという証明書付の商品を買うことができるそうです。それが不正をけん制します。

子どもが働く原因にはいろいろありますが、最大の理由は言うまでもなく貧困です。ただしその一方で児童労働を許容する社会の風潮やそれを直視しようとしない社会、児童労働に対する無関心が温床となっているようなところがあります。私たちが消費する商品の起源を辿ることができたとすれば、児童労働の現場に行き着くかもしれません。私たちの購買が貧しい国の子どもたちの家庭や地域を荒廃させていることを想像してみましょう。適正価格を超えて安いものを求める消費行動が児童労働の誘引となっています。ものの由来や背景に関心を持つことが児童労働を防ぎます。上述のダイヤモンドの取引のように多国籍企業の倫理的行動を促すのも消費者の力です。もちろん政府間レベルで解決するべき課題もあります。それも結局、私たちの税金の使いみちの問題です。納税者のチェックや世論の高まりがなければ政府は動きません。

しかし、希望がないわけではありません。貧しい地域でも児童労働がないところや、もともとあった児童労働が廃止されたという報告があります。子どもを無理やり働かせてはならないという社会の意思がそこに働いているからです。社会の強い意志とそれを支持する国際的な協力が児童労働の撤廃や改善に大きな効果があります。

児童労働は現代における奴隷制度そのものです。私たちは児童労働の廃止を約束した世界共通の言葉を持っています。これらは私たちの財産です。わたしたちはこれによって同胞の問題にたいして有効に働きかけることができます。世界共通の約束事とは、

・世界人権宣言第3条 すべて人は、生命、自由及び身体の安全に対する権利を有する。

・世界人権宣言第4条 何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する。

・子どもの権利条約第32条の1

締約国は、児童が経済的な搾取から保護され及び危険となり若しくは児童の教育の妨げとなり又は児童の健康若しくは身体的、精神的、道徳的若しくは社会的な発達に有害となるおそれのある労働への従事から保護される権利を認める。

ILO138及び182号条約「児童労働の廃止」

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2008年9月17日 (水)

若い人たちに信頼と希望を

 以前にもこの欄でご紹介したことがありますが、私は精神科病院に入院されている患者さんで、もはや入院治療が必要ではない方の退院と社会復帰のお手伝いをしています。これは国の基本方針が入院治療から地域生活へ180度転換したのを受けて各県が独自に行っている事業です。
 この事業の主旨は、受け入れ条件が整えば退院が可能な精神科病院の入院患者が地域で暮らすことができるような流れを新しく作ることにあります。4年前の統計では、全国約33万人の入院患者のうち、この事業の対象者は約7万2千人でした。
 この事業を行うに当たって、保健所をはじめ、県市の行政担当者、病院・医療関係者、社会資源を提供する事業所、私のような民間人など、この「流れ」を作るためにいろいろな立場の人が関わります。このことの背景には社会福祉の構造改革があって、この事業はいわば国策に乗ったものと言えます。だから多くの関係機関が動員される。病院経営者や行政の生活保護担当者もそれに乗らざるを得ない。一人の入院患者が地域で暮らすことができるようになるまでに、多くの人々の知恵と判断が求められ、時間と労力がかけられます。これは、国家の政策転換によって、いわば国家意志が権力を伴って具体化されつつあるひとつの例です。

 それと比較して、「ひきこもり」の人々の社会復帰や社会参加への道筋はどうでしょうか。こちらは力点の置き所が異なっています。社会的ひきこもりそのものは障がいでも病気でもないので、一次的には医療や福祉の施策の対象ではありません。前回の会報でも書いたように、現在のところ「ひきこもり」対策の主流は家族支援です。主にカウンセリングや講習、親の会のグループワークなどで親の考え方や子どもへの対応を変えることによって問題の解決を図る。言い方を変えれば、親任せの状況です。

 全国の社会的ひきこもりの人数は、ある調査では約60万人といわれています。「ひきこもり」が長期化、高齢化する一方で新たにひきこもる人々が加わる。誰が考えても分かるように、明らかに家族支援や自助努力には限界があります。「ひきこもり」の解決に親の果たす役割は大きいということは事例が証明しているようですが、社会復帰や社会参加という視点で、社会の側からのアプローチが是非必要です。その点、今の施策ではまったく不十分に思われます。対策を先延ばしする理由は何もありません。近い将来どの道やらなければならないことです。なぜ対策が進まないのでしょうか。

 『ひきこもり救出マニュアル』を書いた精神科医・斉藤環氏によると、社会的引きこもりは日本だけではなく、隣の韓国や欧米などの高度に産業が発達した社会に共通して見られるそうです。ただし、「ひきこもり」の本人や家族の苦境や痛みはその国の家族関係や社会保障制度によって違いがあります。特徴的な点としてひとつ挙げるとすれば、日本の場合、子どもがひきこもっている限りその世話を家族が延々と見ていなければならないということ、もちろん日本では子どもが成人になっても所得保障はない。この共通点と相違点から生ずる疑問は、第一になぜ社会的引きこもりが同じように産業が発達した国に見られるのかということ、あるいはその原因を養育環境やしつけの仕方などの個人的なレベルの問題に焦点を当てる、つまり個人に責任を求める傾向をいちばん歓迎するのは誰か。もうひとつは、文化の違い、たとえば親子関係や人の自立に対する考え方が国によって違うとはいえ、わが国ではなぜこの問題がこれほどまでに深刻の度を深めてしまっているのかということ。そこに政策の誤りはなかったのかという疑問です。

 現代において、特にこの国では資本と労働(人間)の対立軸が意図的にあいまいにされているように思えます。なぜ私たちの社会はこれほどまでにストレスに満ちているのか。誰もが余裕をなくしているのか。それは、1980年ごろからの30年来、資本の要請のままに行われたこの国の政策が難なく国民生活のあらゆる場面に浸透し、多少の抵抗はあったにせよ、全体としてみれば私たちがそれをあるときは歓迎しあるときは追認してきた、結局私たちの選択の結果ではないかと私は考えています。

 資本は、人間の絆を分断し、人々を管理し、資本にとって望ましい「奉仕する」国民に仕立て上げることに成功しています、国の政策は近年ますます私たちの生活を圧迫しています。若者が背負わされている苦境の原因が積年の施策にあるということ。その方向が、まさに私たちおとなが選択してきたものであることに気付かなければなりません。若者は今のこの社会に苛立ちを感じていても、その苛立ちや怒りをぶつける本当の相手の姿が見えない。

 「ひきこもり」の家族支援は大切な働きであると思います。しかし、一方で「ひきこもり」を生み出す社会の仕組みにメスを入れなければ何も変わりません。このことは、特に「ひきこもり」に限ったことではありません。若い人たちがもっと安心と希望を持てる社会にするために、国は資本の顔色ばかりを伺っていないで、最低限の所得保障を始めとした、教育、福祉、精神保健、産業・労働の各分野を横断する構造的な改革を断行するくらいの決意を示しても良いのではないかと思います。国益を守ることと、その国に住む人々が安心で希望をもって生きることとは相反することなのでしょうか。

 私たちおとなについて言えば、「ひきこもり」は私たちと関係ないところで生じているわけではありません。私たちのために多くの若い日々がむなしく費やされています。「何のために勉強するの」「学校を出てなんの役に立つの」「いまの努力がいつか報われるの」、このような問いに私たちは答えられているでしょうか。若い人たちが希望を持つことができる社会にしなければなりません。若い人たちにこの世界に足を踏み入れる覚悟と勇気を持ってもらうには、この世界がそれだけのものを備えていなければならないのです。

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2007年11月 8日 (木)

楢林理一郎先生の講演を聞いて

社会的引きこもり講演会
2007年11月8日(木)午後1時半~4時
掛川市美感ホール
静岡県精神保健センター
講師:楢林理一郎先生(湘南クリニック院長)
テーマ:ひきこもりに悩むご家族への援助

お話は、ひきこもりの定義と概説、統計的な説明から始まりました。
病院の先生のお話でありながら、医学的な分析よりも、この問題に対する現代医学の限界と心理社会的な支援、精神保健的なアプローチの必要性を説くことが強調されていたように思いました。

「ひきこもり」はしばしば長期化し、家族や援助者は努力が報われず無力感を持ちやすい。その結果、「問題」解決への意欲が低下してしまう場合が多く、長期化によってご本人とご家族の高齢化とともに、ご家族が孤立するという新たな問題も生じやすい。

誰も好んでひきこもっているわけではありませんが、「ひきこもり」の経験と言うものは、たとえその「問題」が解決したとしても、ご本人にとってもご家族にとってもおそらく生涯にわたってその人の生活の質に何らかの影響を及ぼすことと思います。

楢林先生は、お話の中で、「ひきこもり」とうまく付き合うためのアイデアをいくつか挙げられました。「ひきこもり」とうまくつきあう、そういう視点もあるのかなと気づかされました。解決を急ぐあまり、このことが往々にして忘れられがちになるのではないかと思います。
今の閉塞状況を100%悪者と決め付けず、一旦受け入れる覚悟をする。そうすると、今まで見えていなかったことも見えたりするのではないかと思うのです。

「ひきこもり」とうまく付き合うために、先生が最も強調されていたことは、ご家族もほっとできる時間や場所、仲間を持ちましょうと言うことでした。最近は各地に家族会を始め、さまざまな社会資源、相談機関などができてきています。社会や地域にご本人とご家族を支える援助システムが徐々にではありますが構築されようとしています。まだまだ限られた範囲ではありますが、必要としている人たちが声を上げることによって、次第に社会的な広がりを持てるようになるのではないかと思います。また実際そのようになってきています。

なぜ、この人がこの家族がそのような苦しい思いをしなければならないのか、人に訪れた苦難は、その人個だけを見ていては理解できません。来る日も来る日も誰にも言えない苦しさ辛さ。この生活がいったいいつまで続くのか。無為に過ぎていく日々。生きていてそこに何か意味があるのだろうか。

ひきこもりは、いわば人と人が関わりをもつことに対する「異議申し立て」ではないかと思います。表面的には関わりを拒否したり関わりに絶望することのように見えながら、実は、深いところでほんとうの関わりを求めているのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。ですから、ご家族を含めて、この社会は、つまり私たちは引きこもる人の声にはならない「異議申し立て」に答えていかなくてはならないと思います。

いま、この時、全国で数十万人から百万人の「ひきこもり」の方がおられると言われます。それだけの数の人がそれこそ人生をかけて「ノー」を表現している。その数とその重みはどれだけなのでしょう。確かに、ひきこもる方々の存在は見えにくい。しかし、彼ら/彼女たちの声が聞こえない、では済まされない。私たちはその声を聴かなくて、その先にどのような人と人のつながりを作ろうというのでしょうか。私たちは可能な限りの想像力を持ってひきこもる方々の声にならない訴えに耳を傾け、私たちのつながりが本来どうあるべきかを考えることに「ひきこもり」のほんとうの意味があるのだと思います。

なぜ「ひきこもり」があるのか。なぜ「この人」がひきこもらなくてはならないのか。「この人」のこころの中をいくら探っても答えは見出せません。答えは「この人」と「私」の間にあるのではないかと思うのです。楢林先生は、「ひきこもり」に対して従来の精神医学で対応できる範囲は限定される、精神保健福祉的なアプローチが必要であるとお話されました。つまり、医療と福祉の両建てで考えると言うこと、その中でも福祉的なアプローチ、つまり関係性の新たな構築と言うことなのでしょうが、そこからはまだまだ多くの可能性が隠されているので、その方面でも期待できるし、また、どうしてもやらなくてはならないことであると思います。今日の講演を聴きながらそのようなことを考えました。

楢林先生言われる様に「何もしなければ、何も変わらない」。ご本人やご家族への援助も含めて社会の各層、各レベルでそれぞれの有効な手段を用いて援助を一層充実していくべきだと思います。人はなぜ生きるのか、苦しみはなぜあるのか、その意味をご一緒に問い、見出すことができたらと願わずにはいられません。

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